オオサカジン

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2010年09月27日

和敬堂(北村)1


‘和をもって両親に仕え、敬をもって王に仕える’とい意味から和敬堂と名付けられました。

  


2010年09月25日

那智山 青岸渡寺(一番札所)



 西国三十三所一番札所 那智山 青岸渡寺
前夜に自宅を出発し明け方到着。平成12年5月4日約4時間のスケッチ。スケッチ後、熊野三社を参拝。
  


2010年09月23日

養真堂2(河回村)


門屋の右は牛小屋になっています。2本の柱を繋いでいる梁は太く、馬の餌を入れられるように刳り抜かれています。  


2010年09月22日

養真堂1(河回村)


豊山に暮していた柳従恵公が15世紀頃に建てた家で、豊山・柳氏の総本家です。

  


2010年09月21日

忠孝堂 2(河回村)


‘忠孝堂’という堂号は柳成竜先生が平素に‘国に忠誠をもって、両親には孝行しなさい’と説いたとこに由来します。




レンガ積みの煙突はオンドル(床暖房)の煙抜きです。  


2010年09月20日

河回村 忠孝堂1

古都・安東(アンドン)市の河回村(ハフェマウル)は600年前の歴史的伝統村落として世界遺産に登録されました。


西厓・柳成竜の宗宅で、生涯を清く正しく過ごした先生が亡くなった後、門下生と地域の人が先生の遺徳を追慕して。拙斎・柳致睦を助けて建立されたそうです。




 オンドル(韓国の伝統式床暖房)の炊き口です。  


2010年09月19日

慶州歴史遺産地区




 古墳が並びます。紀元前57年から935年まで1000年間新羅王朝の都でした。日本の古墳の様に王は石棺に納められています。

  


2010年09月19日

河回村の風水

 韓国風水にある縁起の良い地形である、対極形、蓮花浮き水形、行舟形に該当し朝鮮時代より人が住む最適の地とされているようです。古くから韓国でも建物は南向きに造られてきましたが、ここでは全ての家が河の方に向けて建てられています。



河をはさんで西側の対岸が芙蓉台と呼ばれる絶壁にがそびえ、今でも毎年7月に伝統花火が催されています。



河回村の西端(芙蓉台の対岸)は松林になっています。  


2010年09月17日

河回村の眺め(韓国・安東)

 村の入口から徒歩で約15分、林を抜けると田畑が広がり村が見えてきました。



洛東江がS字型に蛇行し、その河に囲まれたように河回村があります。河が周囲を回っているから河回村と呼ばれる所以です。地図を見ていると韓国の国旗の模様にもある大極にも見えます。イタリアのベネチアに似ているようにも思えます。

  


2010年09月15日

河回世界化面博物館

 河回村では当時からの庶民の娯楽であった‘河回別神グッ仮面舞’が伝承されていることもあり、仮面博物館があります。


 日本のコーナーもあり能面、翁、般若、ひょっとこなどが展示されていました。


 他にも祭祀で用いられた人形の展示もありました。自然の木枝の形を生かした人形です。東南アジアのものです。  


2010年09月14日

河回村(ハフェマウル) 安東

8月26日古都、安東へ…
前日に訪問した良洞村とともに、歴史的村落として世界遺産登録されました。600年以上前より豊川氏、柳氏の同姓村です。両班(ヤンバン)と呼ばれる当時の高級官僚、貴族階級の人が住む村でした。



村の入口です。ゲートや土産物屋、伝統工芸であるお面の博物館がありました。


入口に作られた池と亭です。ここまでは車が入れますが、もともとの集落までは徒歩か共同運行のバスで行かねばなりません。  


2010年09月13日

瞻星台(チョムソンデ)慶州

慶州の古墳群の近くにある瞻星台です。362個の石を積んで造られており、天文観測や星占いのために造られたと考えられています。



20年前にインドで見たジャンタルマンタルの遺跡を思い出しました。  


2010年09月11日

仏國寺、観音殿


 観音殿です。階段を登りきったところにあります。


 大日如来が祭ってある毘慮殿です。観音殿の西に建っています。


 釈迦の16人の弟子、十六羅漢が祭っている羅漢殿です。毘慮殿の西に建っています。

仏国寺は石窟庵と共に世界遺産に登録されています。
  


2010年09月10日

仏國寺の無説堂


 大雄殿の裏にある無説堂です。言葉で伝えて理解されたことは真の理解ではなく、自らが体得した理解こそが真の理解である。それを知らしめるように‘無説堂’名付けられたそうです。


 無説堂の裏の階段です。階段の上段は観音殿に続きます。  


2010年09月10日

多宝塔と舎利塔

 石段を登った境内の正面の大雄殿の前、右に多宝塔、左に舎利塔が並んでいます。


 多宝塔です。以前私のブログで紹介させていただいた叡福寺の多宝塔の様に、日本の多宝塔は木造ですが韓国では石造です。



 舎利塔です。



大雄殿前の燈籠です。日本の春日灯篭と比べれば火袋の部分が太いです。  


2010年09月08日

仏國寺の亭(右端)

 右端の亭です。



 中の亭の基礎とは何故か様式が違います。中の独立基礎は石組を積み上げたもの、右端の亭は燈籠の軸の様な柱状です。

  


2010年09月08日

仏國寺の石樋

 亭と青雲橋・白雲橋の間に石樋があり、創建当時は裏山から大雄殿(本堂)の下を潜り石樋から水が落ち、下段に広がる蓮池に波紋を描いていたとのことです。
これは仏の教えが波紋のように人々に広がる様子を表していたそうです。




今ではその直下にのみ小さな蓮池が残されています。


  


2010年09月06日

仏國寺の亭

 2つの石段の間にある亭です。この様な石積みの独立基礎の様式も他でも見ません。



組合わせ積み上げられた基礎石はまるで軒下の3重に張り出された升組を強調する様で、まるで鶴が羽を広げたように見えます。



  


2010年09月06日

仏國寺の蓮華門、七宝橋



向かって左の階段です。下段を蓮華橋、上段を七宝橋、門の門は安養門と呼ばれています。



基壇部分の石は他の寺院ではあまり見かけられない工法です。  


2010年09月05日

仏國寺の青雲橋、白雲橋

 8月24日、韓国の慶州を訪れました。
仏國寺は新羅時代、535年の創建です。新羅は石造の技術が独創的で非常に発達していたそうです




 文禄・慶長の役(1592年・1598年)で豊臣秀吉の朝鮮出兵の際焼かれ石造部分のみが残り、後に木造部分が再建されました。
 向かって右の階段です。下の17段を青雲橋、上の16段を白雲橋と言い合わせて33段です。その上に紫震門と言います。




見事なアーチ構造です。



 創建当時は、この階段の前は蓮の茂る池が広がっていたそうで、池を船で渡ってお寺にたどり着いたという説があるそうです。  


2010年09月04日

心水亭(良洞村)



 玉山書院に祭られている李彦迪の弟の住まいです。



 建物の南西に縁側が張り出され、母の家である香壇に似た空間構成ですが、規模はかなり小さくなります。香壇のある丘の下の道を挟んで反対側の丘にあり、母の家が見守れるようになっています。



 弟は兄の出世のために官職に就かず老母を扶養したそうで、村人から尊敬されていたそうです。  


2010年09月01日

香壇(良洞村)



 以前、紹介した玉山書院に祭られている李彦迪が当時の道知事として赴任する際、母の看病ができるように建てた家です。当時は房(部屋)が99ありましたが、今では56しか残っていないとのことです。100以上の房をもてるのは皇帝だけと決まっていたようです。



 今でもこれらの家の多くには、親戚など管理のための人が住んでおり、全てが公開されているわけではありません。